飛騨春慶の由来
 江戸時代初期の慶長年間。高山城下で寺社造営にたずさわっていた大工棟梁の高橋喜左衛門が仕事中に割ったさわらの美しさに、これを盆に仕立て高山城主金森可重の嫡男重近(後の宗和)に献上しました。重近は、その雅趣ある出来映えを悦び、早速御用塗師の成田三右エ門に、塗りを命じたところ、三右エ門は透漆を用いて割目をいかした見事な盆に仕上げたのが、飛騨春慶の始まりといわれています。
 
茶人・金森宗和 
 金森重近の祖父金森長近は、武家茶人として知られ伏見城下の邸宅には茶室が設けられ、家康や秀忠を招いた茶会がしばしばひらかれました。
 また、父可重は利休、織部、道安らから茶を学び、利休亡き後、茶道具の目利きの第一人者としてきこえ、二代将軍秀忠の茶の指南役もつとめました。そうしたことから可重は秀忠に春慶の茶道具もしばしば献上しています。
 このように金森家は、茶に縁の深い家であり、重近も幼少の頃から茶に親しみ、次第に自身の美意識を培っていったものと思われます。
 しかし30歳の時、父と不和になると京都に出て大徳寺で剃髪し、重近改め宗和と号します。
 宗和はやがて華やかで、雅な中にも武家の厳しさをそなえた、いわゆる姫宗和といわれる独自の茶の世界を作り上げました。
 また、宗和は茶道具の制作にも大きな足跡を残しました。御室焼の野々村仁清を指導し、利休好みとは一線を画す華やかで雅な茶器を数多く生み出しています。春慶も宗和好みの茶器として、茶会でしばしば使用されました。

 やがて春慶は、江戸時代中頃から庶民も手にするようになり、しだいに重箱・盆など一般生活用品が多く作られるようになりました。
 
暮らしを彩る飛騨春慶 
 飛騨春慶の大きな特徴は、加飾をほとんど施さないことにあります。
 他の漆器が木地を塗り込め、沈金・蒔絵などで絢爛豪華を目指すのに対し、飛騨春慶は木地そのものを見せ、引き立てることに主眼を置きます。
 もうひとつの飛騨の伝統工芸である一位一刀彫も、彩色にたよらず木の風合いを活かすことを目指して生まれたことを思うと、木に囲まれ、木に生かされ、木と共にあるという飛騨人の木への愛着と畏敬が、飛騨ならではの工芸品を生み出したといえます。
 合成樹脂や金属が、価格や耐久性の点でもてはやされてきた時代の流れの中で、自然素材の持つ温かさや優しさが見直されています。傷がつくからこそ、ものを大切にする心が育まれていく。面倒だからこそ愛着が湧く。ものは、単なる物体ではなく、使う人の心の反映であり、使う人のライフスタイルそのものともいえます。