一位一刀彫の歴史
創始者 松田亮長

 一位一刀彫は江戸時代末期、高山の彫師 松田亮長により生み出されました。
 亮長は、寛政12年(1800年)白川村の生まれで、高山の鋳金屋松田屋吉兵衛のもとで育てられました。
 幼い頃から彫刻に興味を持ち、長じてからは日本各所にある名勝の地を歴遊。彫工の名家を訪ねるかたわら、古い神社仏閣にある彫刻を研究し、技を磨きました。
 亮長が奈良を訪れた際、奈良一刀彫を目にします。奈良人形ともいわれるその人形は鮮やかな彩色が施されていましたが、木の風合いが失われていることを惜しみ、木肌そのものを生かした彫りはできないものかと考え、飛騨の銘木・一位の木を使うことを思いたちます。一位は木目が美しく、朝廷に献上する笏の材として使われていましたが、亮長はこの木を使うことで、彩色に頼らず、木の美しさ、作品の風合い、彫り手の技量をともにいかす彫刻として「一位一刀彫」を考案しました。
 一位一刀彫は、一本の刀で彫られる必要はなく、亮長も木を生かし、作品に合わせた刀の使い方をしています。仕上げにトクサ・ムクの葉で磨き、ロウをひく手法も、亮長により始められたものです。
 一方、亮長は、根付彫刻の名手としてもきこえ、その作品は世に名高く、伊勢の田中岷江、紀州の小笠原一斎、加賀の武田有月と並び賞される存在でした。亮長は、蛇・蛙・亀などを得意とし、細密で写実的な根付を作る一方、一位を用いた簡潔な意匠と彫りによる作品も残しています。

一位
銘木・一位の木

 昔、この木で作った笏を朝廷に献上したところ、他の材で作ったものより美しく、質が高かったことから、最高位の正一位にちなんで、一位といわれるようになったといいます。現在では学名としてもイチイが正式に使われています。
 飛騨では、位山からとれるものを一位、他の山からとれるものをアララギといいました。耐寒性、耐陰性にすぐれているため、庭の植え込みなどにもよく使われています。
 一位は、銀杏と同じ雌雄異株で、雌木は、赤い実をつけます。果肉は、甘くそのまま食べられますが、種子には、アルカロイドのタキシンが含まれるため、誤って飲み込むと中毒をおこすことがあります。


一位の木の特徴

 一位は、成長の遅い分、木目が細かく、夏目と冬目の硬さが均一で彫りやすい木として重用されます。外側の白い部分を白太といい、中の赤い部分を赤太といいます。一位は、時が経つにつれ茶褐色になり渋みが出てきますが、これは木に含まれるタンニンが空気と作用することで生まれるため、箱にしまったままでは、この変化は生まれません。
 一位一刀彫で使用する材は、樹齢100年から中には数百年に及ぶものもあります。原木は輪切りにし、さらにふたつに割って自然乾燥させ、4〜5年経ったところで使用します。通常、彫刻に使うのは赤太の部分ですが、一位は白太と赤太が明瞭なため、この特徴を生かした作品作りも行われます。